思いついたこと

カオナシの正体は「空っぽな現代人」だった。カオナシに学ぶストレス社会の生き方。

こんにちは。

藤原のパクチーです。

唐突ですが、今回はカオナシの正体を考察します。

もはや、こすられまくってるネタだし、いろんな人が好きなこと書きまくってますが、仏教とか心理学的に見ると深いなあと思うことが多かったので、あえてチャレンジしてみます。

現代人にブッ刺さる、ちょっとだけ生きるのが楽になるヒントも見つけたのでシェアしてみますね。

カオナシにはアイデンティティがない

カオナシはその名の通り、「顔」がありません。

「顔」といっても、頭部にある目とか鼻とか口の集まったところの話ではなくて、世間や周囲に対する立場のこと。

日本語だと「面目」(めんもく)なんて言い方をします。

他には「顔が立たない」「合わせる顔がない」と言いますが、そういう自分の立場や、体面を示すのが「顔」です。

私たちは普段、自己紹介をするときに「〇〇会社の藤原です!」と名乗りますが、自分の肩書きや特徴を表すこの「記号」の集まりが「顔」になります。

例えば、

「東京都生まれ」

「28歳OL」

「年収380万」

「英検2級」

「めんどくさがり」

「パクチー嫌い」

などなど…

挙げ出したらキリがありませんが、人は誰でもこのような【自分を示す「記号」の集まり】をもっています。

でもカオナシにはそれがありません。

カオナシという名前とカラダがあるだけ。

記号で例えるなら、ただ「X」としか表現できないそんな存在。

ちょっと思い出して欲しいのですが、作品の冒頭で彼は誰にも関心を向けてもらえず、ただ橋の上に立っているだけでした。

誰にも必要とされていないから、誰も彼を「見る」必要がない。

「顔」って他人に認識してもらったり、他の人と区別してもらうためにあると思うんですが、彼は誰とも関係を持たないから「顔」が必要ありません。

ただそこにいるだけの存在。

いや、カラダすらも透けていますから、存在することすらあやうい状態といえるかもしれません。

千尋はそんな彼を認識し、積極的に声をかけます。

これをきっかけにカオナシは他者との関係性の中での「自分」というものを意識し、段々と「自我」取り戻していきます。

しかしそれはとても不安定なものです。

顔がない彼は自分自身が何者なのかわからないので、大急ぎで自分の存在を確立しようとしました。

それがあの暴走です。

急ピッチで「自分の存在」をこしらえようとしたんですね。

あの暴走はいうなれば「自分探しの旅」だったというわけです。

物質も人間も中心は「空っぽ」

私の敬愛する岡田斗司夫という方が全ての物質の中心は「空っぽ」だと言っていました。

物質を細か〜く、分解していくと最終的には、とても小さい要素(素粒子?)が回転しているだけで中心には何もない。

物質に限らず、全ての物はそれを構成する要素が寄り集まってできているだけで、一つ一つひっぺがしていくと、実は中心には何もないんですね。

これは人にも当てはまります。

「これが自分だ!」と思っているものの中心には「何もない」わけです。

自分の「核」になる部分とか、「本質」なんていくら考えてみてもわからないですね。

さっきの記号を思い出してください。

「東京都生まれ」

「28歳OL」

「年収380万」

「英検2級」

「めんどくさがり」

「パクチー嫌い」

こういう記号を一つずつ剥がしていった先に本当の自分が見つかるでしょうか?

多分無理です笑

逆にこういう記号をいくら集めてみても、本当の自分はわかりません。

あのお釈迦様も2500年前に「『私』は存在しない」ということ突き止めていました。

つまり、本当の自分なんてものはやっぱりなくて、いろんな要素や、人との関係性の中で「自分っぽい輪郭」がなんとなく作り上げられているだけなのです。

カオナシはブラックホール

『全能思考』という本によると、物質の構造と同じように「人が集まる中心には「真空」がある」と書いてありました。

東京の中央に皇居があり、ニューヨークの中央にセントラルパークがあり、ロンドンの中央にハイドパークがあるように、都会の喧騒が渦巻く中央には静寂をまとった真空がある。

そこには何もないのに、何かに満ちている。すべてが欠けているのに、すべてを集めている。自らは変化しないのに、変化を起こす源になる。普段はそこにあることすら忘れられているのに、圧倒的な存在感を放つ厳粛とした空間。

(中略)しかし周縁にある個々の原則は、すべて真空が形を変えたもの。影響力は、中央に横たわる真空から放たれている。

神田昌典(2009).『全能思考』

周りの要素を一つにまとめるのは中央にある「真空」の力なんですね。

ではこれをカオナシに当てはめてみると、かなりしっくりきます。

砂金で大勢の従業員を魅了し従えていた彼は、ものすごいエネルギーを持った「真空」だと考えることができます。

彼は自分を自分たらしめる要素を一つも持ちません。

カオナシは空虚で不安で、寂しい存在です。

本当に何もなくてぽっかりと穴が空いてるだけ。

ブラックホールみたいなものです。

だから必死に周りにあるものを自分の中に取り込もうとします。

人間と似ていますね。

誰かになりたい。何者かになりたい。

あれも欲しいこれも欲しい。

富とか名誉とかできるだけたくさん所有することで、自分という存在が強固になった気がする。

それでも心が満たされないから、誰かに依存したり、お酒に依存したり、ご飯を吐くまで食べたりします。

まさに現代人が心に抱える病です。

カオナシも同じように、油屋のスタッフたちに必要とされることで、自分の存在意義を見出そうとしました。

さらには「人格」までこしらえようとして、何人かのスタッフを直接自分の中に取り込みました。

でも結局それはニセモノ。

だからカオナシのルーツとかアイデンティティをおびやかす質問を、千尋がたくさんぶつけるとパニックを起こしました。

「あなたはどこから来たの?」

「お父さんとお母さんは?」

「おうちはどこなの?」

こんなことを尋ねられても、カオナシはなにひとつ答えられません。それは自分を示す「記号」をひとつも持たないからです。

せっかく油屋のお客さん(神様)として君臨できたのに、カオナシの存在意義はあっという間に揺らいでしまいました。

カオナシとして生きる勇気

その後、カオナシは湯婆のかめはめ波を受けて、七転八倒の末に全てを吐き出します。

急ピッチでこしらえた「自分」というハリボテはいとも簡単に崩れ去ったわけです。

そして、元の姿に戻った彼は、千尋とともに銭婆の住む家へ向かいました。

そこで千尋との別れ際に、銭婆から声をかけられます。

おまえはここにいな。あたしの手助けをしておくれ。」と。

この時、カオナシは初めて役割を与えられました。

偽りの自分ではなくて、ありのままの自分でも人の役に立つことができる。

銭婆の家で千尋の髪留めづくりを手伝いながら、そんなことを学んだのではないでしょうか。

かくして、カオナシは「カオナシ」として生きることを選択することができました。

まとめ 「普通であることの勇気」

このカオナシというキャラクターから学べることは、たくさんあると思いますが、私が読み取ったメッセージは「普通であることの勇気を持つこと」です。

これは私の学んでいるアドラー心理学でも頻繁に出てくるフレーズです。

ありのまま」という言葉がアナ雪でも使いまわされていましたが、人間はこの状態でいるのが、たぶん一番難しい。

どうしても周りと比べてしまうからです。

でも本来、

「自分には何もない」と嘆く必要はないし、自分を実際よりも大きく見せようとする必要もない。

釈迦やアドラーはそんな感じのことを言ってた気がします。

落ち込んだり迷った時に「自分探しの旅」に出ることがありますが、自分の外部に何かを求めたり、自分の内部をいくら掘り下げてみてもたぶん、何も出てきません(笑)

先ほどカオナシのことを「X」と例えましたが、Xに何を代入してみても、X自身のことは絶対にわからないのです。

だから、わからないもののことを考える意味はあまりないのかもしれません。

自分の真ん中に、心の真ん中に、ただ静寂をまとった真空がある。

そのことを意識するだけで少し楽になる気がします。